第8〜10話(総括)

【”日本”のアイデンティティ】
私はこの作品の大テーマを「国土が消失したとき、”国民”としてのアイデンティティはどう変化するのか?」だと捉えています。それを、主人公の歩を中心とした《個人の視点》と、彼女らが関わっていく《集団の視点》の両方で描いた作品です。

《個人の視点》で見れば、歩にとって国土の消失は命のリレーに他なりません。
生死の危機にあって、歩たちを生かすために命を懸けた母や古賀やKITEたち。彼らはただ目の前の命をつなぐことに集中していた。日本国土の沈没という未曾有の大災害も、個人の視点ではあくまでも命との闘いでした。
そして第10話、歩と剛は愛する人たちの記憶とアーカイブを胸に、世界へと羽ばたいていきます。


では《集団の視点》はどうでしょうか?
そもそも集団とは、シャンシティのような宗教団体から日本という国家に至るまで規模の大小はありますが、その全てに共通しているのが「集団は共同幻想によって成り立つ」という点です。
例えば、シャンシティはマザーの能力に魅せられた(共同幻想)人々が集まった集団であり、日本国民は、日本国家という物質的な実体のない共同幻想を共有する集団、と捉えられます。そして、物質的な実体のないはずの日本国家を、あたかも物質的に存在させているのが日本国土、というわけです。では、その日本国土が消失したら日本国民の共同幻想はどうなってしまうのか。これが本作の大テーマです。

結論としては、第10話で描かれているように、失われた国土を「在りし日の日本の姿」としてネット上にアーカイブ配信していました。日本国土が再び隆起するまでの100年間、人々の記憶を共有していくことで共同幻想を維持しようとしていたのです。これはインターネットで世界中が繋がった現代ならではの手法です。

このように記憶を共有させて”国家”のアイデンティティを維持していこうとする中、日本国籍を選んだ剛が実は国籍を気にしていない、というのも面白い設定でした。彼の場合は日本が沈没する以前からすでに世界中の人々と交流を持っており、そもそも日本の国土に対するアイデンティティの依存度が低かった。そんな剛が最も肩の力を抜いて”身軽”にいまを生きている感じがします。
つまり、共同幻想によるアイデンティティはその幻想への依存度が高ければ高いほど強力であり、より大きな集団を形成しやすい一方で、ひとたび幻想が失われれば依存度の分だけアイデンティティに危機が訪れる、ということでしょう。


第10話は涙無くしては見られないような”復興”と”希望”のストーリーに思えましたが、この涙さえ自分の「日本国民」としての愛国のアイデンティティから流れているのではないか、と思うと、作品が投げかけてくる感動と、その裏にある自我の危うさ・脆さに足元をすくわれたような気がしました。
様々な批評がある本作ですが、私個人としては、様々な意見の出るこういった作品だからこそ
見る価値があるのだと思います。全員が納得するような作品は(そもそも無理だが)、それこそ”共同幻想”となり、私たちから何かを奪っていくのかもしれません。